香春藩成立及び御茶屋門の説明文の立て看板>



 LLPチーム香春藩とは                <姉妹提携LLP> 英彦山地域デザイン.LLP




 このたび有限責任事業組合チーム香春藩、英語名、Limited Liability Partnership Team Kawara Domain (以下、LLPチーム香春藩もしくはLLP TKDという。)を設立する運びとなりました。この「藩」という名称を用いる意図は次のとおりです。
 香春藩は、小倉藩が幕末に長州藩に攻め入られ小倉から香春の地に落ち延び、豊津に藩を移設までの間 半年間この香春の地で執政を行っていました。その範囲は、いわいる田川・京築(小倉南を含む)を表していることから、香春藩という名前を用いることで、香春に拠点を置きつつ幅広く活動するフィールドを示すこととしました。
 地域で人々が幸せを築いていくためには、自らが稼ぐための知恵を絞り、自らが汗をかいて、まちと暮らしを創りあげなければなりません。何もしないで助けてくれるという、これまでこの地域を支配してきた論理は、今回の地方創生では全く通用しません。これを打破するために、任意の団体や個人ではなく仕事として取り組むことができ、かつ、組織で活動できる有限責任事業組合チーム香春藩を立ち上げることになりました。
 有限責任事業組合とは、有限責任事業組合契約に関する法律に基づき登記されますが、この法律では、事業を行う出資者がその責任において事業を行い、事業した者のみが相応の対価として利益を得る組合組織の仕組みとなっています。


Ο香春町の紹介  (香春町ホームページより

Ο動画による香春町の紹介 1.前編  2.後編



 人口約1万2千人を有す香春町は古い歴史があります。初めて公式文書に登場するのは八世紀に編集された"風土記"であり、その語源は古代朝鮮語にそのルーツを探ることが可能で、古くより朝鮮半島や中国と密接な繋がりがあった土地であることが分かります。

 近代では、セメント産業を中心に発展し、昭和31年に3町村が合併し、現在の香春町に至っています。周辺は香春岳をはじめとする山々に囲まれ、数々の史跡や文化遺産にも恵まれており、万葉集には香春を詠んだ短歌が7首あり記念の歌碑も建っています。また、町内には5つの窯元があり、陶芸のまちとしても有名であります。

 古くは風土記や万葉集、大宰府管内誌さらには小倉日記や炭坑節、そして青春の門などと歴史、文学、紀行等に多く登場している香春の地は大宰府と奈良を結ぶ"大宰府官道"「田河道」の時代より変わらず、現在も国道201号線と322号線のクロスする交通の要です。

「香春」の由来
 古代から軍事・交通・外交上の要地としてしられた香春ですが、地名の漢字は複数あります。河原、鹿春、清河原、加波流、賀春、香春、香原などと多様に書き残されています。
 それらの語源は、古代においてカパル(急険な)カグポル(金)と言う意味から来たという説もあります。その原典は、万葉集の九巻の歌に「豊国の香春(加波流)は吾宅・・・」や豊前風土記に「田河の郡、鹿春の郷・・・」語源はいずれも『川原』の意味から取ったあて字であって、金辺川(清瀬川)の美しい川原の意味であると書かれています。和名抄には「田川郡香春郷あり、香春は、加波留又は『カハラ』と訓むべし。』と出ている。中世の頃には、香原の字も見えますが、香春が定着したようです。



 香春岳は日本の古代史や仏教史、また中世の戦国史上に残る歴史の山である(ここでは記していないが、香春岳の中腹にあった鬼ヶ城は平安−鎌倉−室町に及ぷ戦国記に登場する豊前国古城史のなかでは不落の名城として名ある古城で、最澄ゆかりの神宮院なども香春岳のふもとにある。)。調べていくといろいろと興味深い。新羅からの渡来人が香春に住み着き、香春岳から産出する各種金属を精錬生成し、その高度な技術から神と崇められる。この地の銅は、その後奈良の大仏造営の時にも大量に供出されたという。紀元前に、秦始皇帝から命ぜられ、不老不死の薬を求めてきた徐福がこの地を訪れたと言うことも無いだろうかと、想像もふくらむ。(福岡県出身で現在横浜市在住の福島さんのホームページより)

香春町の位置 (Google Map より)






このページのトップへ